フォトアルバム

2010年3月

  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      

ウェブページ

ブログ powered by TypePad
Member since 12/2008

お茶の歴史

2009年3月17日 (火)

中国茶の歴史 ⑩ お茶の種類の飛躍的な増加

1202021_img 

写真は福建省安渓の茶公園にあった伝説の説明石

日本では「茶経」よる緑茶の作り方を参考に茶葉を蒸して醗酵を止めるために味重視の緑茶文化が深く根付いていきますが、中国では「緊圧茶禁止令」により炒ることにより様々なお茶が生まれてきます。

文献によりますと

AC 220       緑茶の記述あり    (作茶餅)

AC1074       黒茶                     湖南省

AC1256       花茶                     緑茶の残りの再加工品?

AC1554       白茶                     最初は葉が白いもののみを加工

AC1570       黄茶                     最初は葉が黄色いもののみを加工

AC1650       紅茶                     福建省 武夷山 小種紅茶が最初?

AC1717       青茶                     諸説伝説あり 福建省が本場

これはあくまでも文献上の最初の記述であり、実際に茶葉原産地ではもっと前からあったと思われます。

■烏龍茶の由来■

烏龍茶は今でも竹かごで茶葉に傷をつける工程「揺青」と言う工程があり 福建省、安渓では・烏龍茶発祥伝説が・・・昔々ヌーロンと言う猟師が竹籠を背負って愛犬とともに猟に出かけると・・・獲物発見!あわてて追いかける途中茶樹の中を通り抜け獲物を・・翌朝ヌーロンが竹籠を背負おうとすると、なにやら竹籠からいい香りがする 中をのぞくと茶葉が竹籠に入っている、これは良い香りだ、飲んでみようと・・ここから茶葉全体を使い「揺青」と言う工程を経て烏龍茶が出来るようになった。また烏龍茶の名前の由来はヌーロンが訛ったとも言われるし・茶葉の外観が黒く力強くカラスのようだからと言う説があります。私はヌーロン説方が好きです。

2009年3月 2日 (月)

中国茶の歴史⑧ 蒸すから炒るへ

Pict5341

写真は福岡県矢部村で茶葉火入れ体験時の写真です。

⑦からの続き日本には先述(中国茶番外編を参考下さい)のとおり、唐代に輸入されたが中国では唐の崩壊により遣唐使が寛平6年(894年)に菅原道真により建議の上廃止される。その後日本と中国の国交は1401年(室町幕府時代 第三代将軍 足利義満が始めた日明貿易)の遣明使まで途絶える事になる。この国交が途絶えた500年の間に日本でもお茶が根付き確立され、また中国では明時代に皇帝により緊圧茶禁止令が出され、また貢茶(皇帝に茶を献上する事)も廃止されました。

(この禁止令には様々な理由が考えられる) 

■茶葉の価値が向上し茶葉数キロと馬一頭など庶民に手が届かない

■成型・茶蒸等は設備が必要で生産量を増やす事ができない

■茶葉は体に良いものとされ、庶民に普及を促す

■庶民の不満を抑え、家庭でも茶葉が作れるよう、炒るお茶の普及を進めるため

この時代から中国では「炒る」事によりまず生産がしやすくなり、茶葉自体も茶湯が薄くなったが香りが高く様々な地方で中国茶の香りを競い合いが始まった。ここから中国茶の種類が飛躍的に増える事になる。

■参考資料■

日本にも江戸時代に炒る製法が伝わったが、定着したのは佐賀県の『嬉野茶』などほんの一部のみ。当時にすでに日本では広く普及していたためと考えられる。ここから日本茶は味優先、中国茶は香り優先が始まったと言えるかもしれない。

2009年2月27日 (金)

中国茶の歴史⑦ 緊圧茶とは?

中国茶の歴史⑦ 緊圧茶とは?

Motitya 写真は「七子餅茶」

⑥からの続きで、陸羽が書いた「茶経」は唐代758年前後といわれていますが、それからしばらくは「茶経」をバイブルとして「茶」は広がりをみせます、しかしこの当時は緊圧茶が主流でもちろん「茶経」も緊圧茶の事が主流になります。

それでは緊圧茶とはどのような茶葉でしょう?

茶葉を仕上げやすく、運びやすく固めた「緊圧茶」とは

茶摘

成型

茶蒸

包装(竹皮による)

と簡単な作業で作られていました。現在の六大茶分類から言うと「緑茶」に近いものだったといわれています。

また、当時は地方で作り方に差異があり雲南地方で作られた茶葉はチベット・モンゴル等に運ばれていく途中で雨にぬれたりしていくうちに、再度醗酵する事がありプーアル茶などが生まれたと思われます。

「七子餅茶」は竹の皮に「緊圧茶」を七枚単位で包んだ事からそのように呼ばれるようになりました。今では「緊圧茶」の事を大きさや形で分類して七子餅茶・団茶・沱茶等と呼びます。

■参考程度に■

中国雲南省麗江(世界遺産)から馬でキャラバンを組んでいく道。雲南省、四川省、チベットを結ぶ交易路を「茶馬古道」もしくは「西南シルクロード」といいます。
同じ意味を持ってはいますが、厳密にいうと茶馬古道の起源の方が古く唐代から、つまり西南シルクロードが完全に結ばれるよりも1千年も時代を遡ります。元来「茶馬古道」という名称の由来は、隊商が雲南省の「茶」をチベットの「馬」が運ぶ、この一連の流れからきていると言われています。
 四川盆地を出発点にし、古代南詔国が栄えた雲南省を経て、チベットやミャンマー、インドといった南アジアに至り、最終的にはヨーロッパへとそのルートを延長していきました。交易品も茶だけではなく、絹や布、果ては塩なども取り引きされるようになりました。長い年月を経ても、茶馬古道を支えた多くの宿場町は往時の姿を留め、主要な交易品であった塩を精製する古村は現在も残っています。

2009年2月23日 (月)

中国茶の歴史 番外編

中国茶の歴史 番外編 お茶の日本への伝来

Pict5360

写真は福岡県黒木町の茶畑

茶経の最初のくだり「一之源」の書き出し「茶は南方の嘉木なり・・」というのは千利休の高弟が書いたとされる。

陸羽は南方録(なんぽうろく)にも影響を与えたといわれています。 

※南方録とは、博多の立花家に千利休の秘伝書として伝わった古伝書である。研究者の間で高い評価を得ていたことから、重要資料として現在の「わび茶」の概念の形成に大きな影響を与えた。

話は最初から寄り道しましたが、中国では日本にお茶を持ち帰ったのは「遣唐使」として渡った最澄と帰されています。(出発は804年帰国は806年)

このとき空海も一緒でしたが、当時の年齢から団長は最澄と見られていました。

当時中国で流行していた茶と出会い茶樹を京都に持ち帰り宇治近郊に植えたのが日本での始まりといわれています。

空海説もありますが、最澄と空海は後年宗教上の解釈から仲たがいしてしまい、またそのご最澄が天皇の後ろ盾を失い失脚することにより日本では出てくるみたいですが、中国では最澄が持ち帰ったといわれています。

この当時の注意点は二つ、当時は「茶径」にもあるとおり蒸し茶がメインであったため日本では当然のように蒸し茶が普及していきます。(中国ではこの後すぐに炒茶が主流になっていきます)

私は福岡に住んでいますが、九州のお客様ではとくに「喫茶養生記」を書いた「栄西」といわれる方もいらっしゃいますが、栄西が1195年に聖福寺を建立ですから時代としてはかなりあとです。

栄西は九州で禅宗を布教していた時に茶も広めたといわれています。また喫茶養生記(上下2巻)は源実朝に天保二年(1214年)に献上され上巻では茶の種類や抹茶の製法、身体を壮健にする喫茶の効用が説かれ、下巻では「クワの葉茶」の効用をうたっていました。

2009年2月21日 (土)

お茶の歴史⑥茶経とは

お茶の歴史茶経とは

1131314_img_2

写真は現代に残る「茶経」

前回の続き・・

陸羽が戦乱に巻き込まれる前に「茶経」を書き上げたといわれています。七五八年前後 世界で最も古いお茶の本だと言われ、内容は三巻(上、中、下)で内容は十節・十五学科に分けられます。(別記) 植物・農作・生態・水利・民俗・歴史・文学・茶器のつくり等の知識、その当時のお茶事情を網羅しています。

また当時のお茶に関する書物は語り口調の本が多く、箇条書きでまとめてあるのも優れた点といわれています。

また当時は唐の都は「洛陽」(河南省)にあり陸羽が住んでいる湖北省は田舎と見られ田舎にこのような素晴らしい本を書いた仙人がいるとうわさになり、仙人のイメージが付いたといわれています。

茶経は次に挙げる10章で構成されている。

  • 一之源・・・茶樹について
  • 二之具・・・製茶器具の説明 
  • 三之造・・・製茶する際の注意 
  • 四之器・・・飲茶器具の説明 
  • 五之煮・・・茶を淹れる際に注意 
  • 六之飲・・・茶の飲み方 
  • 七之事・・・茶の史料整理
  • 八之出・・・茶の産地 
  • 九之略・・・省略してよい物
  • 十之図・・・茶の席レイアウト等

    ここで注意

    この時代には中国では緑茶・餅茶・粉茶が主たるお茶です、それ以外の記述はありません。

    またこの当時の中国茶は現在の醗酵を止める際には蒸して(日本茶と同じような作り方)で現代の中国茶のように炒るお茶ではなく、香りよりも味を楽しむものでした。

    とにかく「茶経」はお茶の基本を統計建てて、箇条書きにし・またそのボリュウーム、も当時ではずば抜けており7200文字前後もありました。

    次回続く・・

     

2009年2月19日 (木)

お茶の歴史⑤

お茶の歴史⑤

1151541_img

写真は北京にある茶市場の入り口にある「陸羽」

お茶の世界も歴史が古いと文献が少なく真偽性が疑わしいことも多い。しかし「陸羽」が書いた「茶経」がその世界を変えた。今でも「茶経」は世界最古の「茶」を体系付けた最初の出版物である。

「陸羽」について少し説明 LuYu:(733~804)現在の湖北省付近の出身 茶神、茶聖、茶王、と色々呼ばれます。

捨て子であった彼は、幼いころ褝師に拾われ寺院で育てられます、当時の寺院は権力もありまた褝師は結婚もしないことから、労働力として拾われてきます、「陸羽」の名前がつけられたのも褝師によるものでした。

またもともとの出生が不明だった「陸羽」は僧侶になるべく育てられますが、当時寺で行われていた「茶会」で大人たちから「あなたの入れたお茶は美味しい」と言われそれをきっかけにお茶を美味しくいるということを考え始めました。

12歳のとき彼は僧侶になるべく仏門勉強していたのですが、小さいころから聡明だった彼は
茶会で大人たちに茶を淹れている時に「儒教」に触れ未知の領分としての「儒教」に興味を持ち寺を離れます。

しかしうまくはいかず、俳優や劇団監督等をこなしながら生活する日々の途中で、地方領主に見出され勉強する機会を得ます。

こうして文化人となった「陸羽」ですが、755年「安史之乱」に巻き込まれ戦争被災者となり南方に避難したことがきっかけで茶葉の産地に向かうことになるのでした。

次回に続く・・

2009年2月 9日 (月)

お茶の歴史④

1191959_img 1191978_img

歴史の話で少し飛びますが、中国茶を含め中国の歴史は不確実な話も多くまとめようとしても大変です。

例えとして、上の二枚の写真は福建省安渓にある「鉄観音」の古株(原種)といわれるものですが写真でも分かるとおり二箇所あります。

現地で話を聞くとどちらもこちらが本物で別のものは偽者だといいます。方や公園になっているのと、老人管理者がいるところ判断つきません。

ですからこれはどちらも本物なのです!(文献にも福建省安渓周辺としかなく・二箇所は車で約30分ぐらい離れているが・・・)

このようなことはよくあります、ですから私もこの歴史の話を書く際には・現地で聞いたこと・中国の本に書いてあったこと知り合いから聞いたことを中心になるべく自分で整理しているつもりですがなかなか人にうまく伝えることが出来ません。

いつか時間があったら時系列でキレイに整理したいと思いながら・・・

2008年12月 9日 (火)

お茶の歴史 3

前回までの話でお茶の有効性がわかってきていたが、その茶葉を煮出して飲む「飲用」が始まったのは実際には三国時代前後と言われています。

伝説では「時は昔の事である。皇帝が森に狩に出かけた時のこと。長い時間狩をして彼は、お湯を飲もうと、従者に釜を使い水を沸かせていた。しかし沸く寸前の釜に葉っぱがひらひらと入ってしまった。すると湯に見る見る色が付いてきて・・これはまずい!皇帝が怒るのを恐れた従者は、もう一度水を沸かそうとしていたそのとき、のどが渇いていた皇帝は色も気にせずその湯を飲んでしまった。意外にも、お湯よりもおいしい。以後、皇帝はその葉っぱをお湯に入れて飲むようになったという。

また三国志演技の原文にはお酒を飲めない武将が替わりにお茶を飲む話もあるらしい・・

先週番外編でも書いたが、この三国時代以前は紙による記録も少なく(当時は竹簡や木簡)あくまでも伝説ですが。

参考までに「英雄」と言う映画を見られた方は覚えているでしょうか? 残剣 - 梁朝偉(トニー・レオン)が無名 - 李連杰(ジェット・リー)に必殺技を見せろといって円形状の書庫で竹の破片が飛ぶシーンあれが竹簡です。

写真は台湾にて

2008年12月 1日 (月)

お茶の始まり 番外編 お茶の起源

先日の西日本新聞に・・

中国で6000年前の茶畑「 田螺山遺跡」
 中国浙江省の初期稲作集落跡・田螺山遺跡で、6000−5500年前の地層から世界最古の茶畑とみられる遺構が見つかり、金沢大の中村慎一教授(考古学)らの日中共同研究グループがこのほど、金沢市で開かれた成果報告会で発表した。
 茶は中国・雲南地方が野生種の発祥地とされるが、紀元前1世紀(前漢)の文献の記述が最も古く、それ以前の状況は分かっていない。今回の発見は、茶が予想以上に前から親しまれていた可能性を示すとともに、栽培の起源を探る上で貴重な成果となりそうだ。
 共同研究グループによると、当時の地表に掘られた縦約3メートル、横約2メートルの穴の中から、木の根が10数株出土。低湿地で保存状態が良く、顕微鏡で組織を調べたところ、ツバキ属と分かった。列状に並んでおり、植樹されたとみられる。約5メートル離れた場所でも同様のものが見つかった。
 ツバキ属にはツバキやサザンカ、茶の木がある。研究グループは、つばき油の採取には樹木数が少なすぎると判断。樹高がかなり低そうで葉を摘むのに適しているなどとして、茶の木の可能性が高く、数メートルおきにまとめて植えた茶畑と推定した。


と載っていた。

そういえば、茶樹の話をしていなかったので・・

まずは起源を探ろうと・・

今でも、茶樹の起源は雲貴高原(中国の雲南省南部から貴州省にかかる地域)にあるといわれ、実際雲南省にある野生古茶樹群がギネスブックにも載っています。

この地域は、台湾茶葉販売業の「天人銘茶」さんが出資した献金で保護されています。実際雲貴高原の茶樹は高さ5Mを越え大きい物ですと数十mと巨大です。

紀元前となると紙もなく保存文章もすくなく、今までは紀元前1世紀(前漢)の文献が最古のものとされています。しかし今回の検証では、茶畑が紀元前4000年という。ここまでいくと文書文献での立証はできないので更なる実地の検証を期待しています。

2008年11月28日 (金)

お茶の歴史�

お茶の歴史�お茶は噛むもの?

前回「神農」の話から、・・お茶は当初嗜好品というより薬用として用いられたと考えられます、実際に漢時代(紀元前1世紀)に書かれた医学書『神農本草記』には「茶味苦、飲之使人益思、少臥、軽身、明目」などという記述が残されており、この頃にはお茶の薬としての効能が知られていました。

また、三国志演義で有名な後漢の名医華佗もお茶の効能について『食経』という本で触れています。この頃のお茶は、上流階級の薬用として主に用いられていました。

実際にこれらの時代に書かれたものは存在せず、(当時は紙に書く概念もなく紙も高級品だったため木簡や竹簡を使用していた)私自身はあくまでも後世様々な加筆されたときに追加されたのではないかと思っています。

ちなみに中国古代文明による発明のうち、「火薬」、「羅針盤」、「紙」、「活版印刷」の四つは中国四大発明として世界に知られており、現存する最古の「紙」は、紀元前150年頃の中国で作られたものと推測されている。また紙の使用方法も最初は銅鏡などの包装用に使用したらしい・・

話はお茶の話に戻りますが、発見当初は「体に良い」から始まり宗教的な儀式や祭りにで使うようになりましたが、当時は飲用ではなく葉を直接噛むようにして使っていたと言われています。 


2008年11月21日 (金)

お茶の始まり�


世界共通「茶」と呼ばれるものの始まりは「神農」からといわれています。

「神農」とは伝説に登場する皇帝。三皇五帝の三皇の一人。自らの体で効能を確かめ、諸人に医療と農耕の術を教えたという。中国では“神農大帝”と尊称されていて、医薬と農業を司る神とされている。

神農神農は紀元前2740年ころの古代中国の王で、120歳まで生きたといわれている。世界最古の本草書「神農本草経(しんのうほんぞうきょう)」に名を残している。

伝説によれば、神農の体は脳と四肢を除き透明で、内臓が外からはっきりと見えたと言う。一日百種の農産物を、毒か薬かを調べていあたが、毒にあたることも多くこのときお茶を使って解毒したことからお茶の木を見つけたといわれています

また日本では、薬の神様として 薬祖神社 (堺市戎之町)や少彦名神社(大阪市中央区)にて現在も祭りが行われています。

神農はまた「神農皇帝」の名称で的屋の守護神として崇敬されています。

ようは、伝説ですが「神農」がお茶は体に良いということを発見したといわれているのが通説です。